読書メモ:失敗の本質

読書メモ:失敗の本質

読書メモ。

ノモンハン事件から沖縄戦まで、六作戦における敗北を社会科学的分析を用い検証。日本的組織の病理に迫る。


序章:日本軍の失敗から何を学ぶか #

大東亜戦争における諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、これを現代の組織にとっての教訓、あるいは反面教師として活用することが、本書の最も大きなねらいである。それは、組織としての日本軍の遺産を批判的に継承もしくは拒絶すること、といってもよい。いうまでもないが、大東亜戦争の遺産を現代に活かすとは、次の戦争を準備することではない。それは、今日の日本における公的及び私的組織一般にとって、日本軍が大東亜戦争で露呈した誤りや欠陥、失敗を役立てることにほかならない。

では、日本軍の失敗がどうして現代の組織にとって関連性を持ちうるのか、また教訓となりうるのか。

そもそも軍隊とは、近代的組織、すなわち合理的・階層的官僚制組織の最も代表的なものである。戦前の日本においても、その軍事組織は、合理性と効率性を追求した官僚制組織の典型と見られた。しかし、この典型的官僚制組織であるはずの日本軍は、大東亜戦争というその組織的使命を果たすべき状況において、しばしば合理性と効率性とに相反する行動を示した。

つまり、日本軍には本来の合理的組織となじまない特性があり、それが組織的欠陥となって、大東亜戦争での失敗を導いたと見ることができる。日本軍が戦前日本において最も積極的に官僚制組織の原理(合理性と効率性)を導入した組織であり、しかも合理的組織とは矛盾する特性、組織的欠陥を発現させたとすれば、同じような特性や欠陥は他の日本の組織一般にも、程度の差こそあれ、共有されていたと考えられよう。

本書がめざすところは、大東亜戦争における日本軍の作戦失敗例からその組織的欠陥や特性を折出し、組織としての日本軍の失敗に籠められたメッセージを現代的に解読することなのである。

一章:失敗の事例研究 #

(省略)

二章:失敗の本質 ー 戦略・組織における日本軍の失敗の分析 #

あいまいな戦略目的 #

いかなる軍事上の作戦においても、そこには明確な戦略ないし作戦目的が存在しなければならない。目的のあいまいな作戦は、必ず失敗する。それは軍隊という大規模組織を明確な方向性を欠いたまま指揮し、行動させることになるからである。本来、明確な統一的目的なくして作戦はないはずである。ところが、日本軍では、こうしたありうべからざることがしばしば起こった。

もともと、目的の単一化とそれに対する兵力の集中は作戦の基本であり、反対に目的が複数あり、そのため兵力が分散されるような状況はそれ自体で敗戦の条件になる。目的と手段とは正しく適合していなければならない。

作戦目的の多義性、不明確性を生む最大の要因は、個々の作戦を有機的に結合し、戦争全体をできるだけ有利なうちに集結させるグランド・デザインが欠如していたことにあることはいうまでもないであろう。その結果、日本軍の戦略目的は相対的に見てあいまいになった。この点で、日本軍の失敗の過程は、主観と独善から希望的観測に依存する戦略目的が戦争の現実と合理的論理によって暫時破壊されてきたプロセスであったということができる。

このプロセスは、戦争の開始と集結の目標があいまいであるという事実によって、実に戦争全体をおおっていたのである。

短期決戦の戦略志向 #

日本軍の戦略志向は短期的性格が強かった。

日本は日米開戦後の確たる長期的展望のないままに、戦争に突入したのである。長期の見通しを欠いたなかで、日米開戦に踏み切った。

この戦略の短期志向性は個々の作戦計画とその実施のなかにも明らかに反映している。一過性の攻撃戦法は、しばしば見せたものであった。

主観的で「帰納的」な戦略策定 ー 空気の支配 #

戦略策定の方法論をやや単純化していえば、日本軍は帰納的、米軍は演繹的と特徴づけることができるだろう。演繹をある既知の一般的法則によって個別の問題を解くこと、帰納を経験した事実のなかからある一般的な法則性を見つけることと定義するならば、本来の戦略策定には両方法の絶えざる循環が必要であることはいうまでもない。しかしながら、両軍の戦略策定の方法論の相違をあえて特徴づけるならば、上記のような対比が可能であろう。さらに厳密にいうながら、日本軍は事実から法則を析出するという本来の意味での帰納法も持たなかったとさえいうべきかもしれない。

日本軍の戦略策定は一定の原理や論理に基づくというよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずであった。これはおそらく科学的思考が、組織の思考のクセとして共有されるまでには至っていなかったことと関係があるだろう。たとえ一見科学的思考らしきものがあっても、それは「科学的」という名の「神話的思考」から脱しえていないのである。

空気が支配する場所では、あらゆる議論は最後には空気によって決定される。もっとも、、科学的な数字や情報、合理的な論理に基づく議論がまったくなされないというわけではない。そうではなくて、そうした議論を進めるなかである種の空気が発生するのである。

日本軍は、はじめにグランド・デザインや原理があったというよりは、現実から出発し状況ごとにときには場当たり的に対応し、それらの結果を積み上げていく思考方法が得意であった。このような思考方法は、客観的事実の尊重とその行為の結果のフィードバックと一般化が頻繁に行われるかぎりにおいて、とりわけ不確実な状況下において、きわめて有効なはずであった。

しかしながら、日本軍の平均的スタッフは科学的方法とは無縁の、独特の主観的なインクリメンタリズム(積み上げ方式)に基づく戦略策定をやってきたといわざるをえない。

日本軍が個人ならびに組織に共有されるべき戦闘に対する科学的方法論を欠いていたのに対し、米軍の戦闘展開プロセスは、まさに論理実証主義の展開にほかならなかった。太平洋の海戦において一貫して示されたアメリカの作戦の特徴の一つは、たえず質と量のうえで安全性を確保したうえで攻勢に出たことである。数が明らかに優勢になるまでは攻撃を極力避け、物量的に整って初めて攻勢に打って出ている。

日本軍の近代戦に関する戦略論の概念も、ほとんど英・米・独からの輸入であった。もっとも、概念を外国から取り入れること自体に問題があるわけではない。問題は、そうした概念を十分に咀嚼し、自らのものとするように務めなかったことであり、さらにそのなかから新しい概念の創造へ向かう方向性が欠けていた点にある。したがって、日本軍エリートの学習は、現場体験による積み上げ以外になかったし、指揮官・参謀・兵ともに既存の戦略の枠組の中では力を発揮するが、その前提が崩れるとコンティンジェンシー・プランがないばかりか、まったく異なる戦略を策定する能力がなかったのである。

日本軍の戦略策定が状況変化に適応できなかったのは、組織のなかに論理的な議論ができる制度と風土がなかったことに大きな原因がある。

狭くて進化のない戦略オプション #

日本軍の戦略オプションは米軍に比べて相対的に狭くなる傾向にあった。昔から緒戦の決戦で一気に勝利を収める奇襲戦法は、日本軍の好む戦闘パターンであった。

戦略オプションが狭いということは、一つの作戦計画の重要な前提が成り立たなかったり、変化した場合の対応計画(コンティンジェンシー・プラン)を軽視した点にも現れている。

一連の綱領類が存在し、それが聖典化する過程で、視野の極小化、想像力の貧困化、思考の硬直化という病理現象が進行し、ひいては戦略の進化を阻害し、戦略オプションの幅と深みを著しく成約することにつながったといえよう。

アンバランスな戦闘技術体系 #

日本軍の兵器・戦闘技術の水準は、日露戦争や第一次大戦の段階にとどまるものが相当程度あった。ところが、他方できわめて高性能、当時の技術水準では米軍をはるかに凌ぐような兵器が開発されているのである。

軍の戦闘は組織の戦闘であると同時に、技術体系の戦闘である。各兵器が緊密な連携のもとに戦闘を展開しなければならない。こうした総合的技術体系という観点から見ると日本軍の技術体系は、全体としてバランスがよくとれているとはいいがたい。ある部分は突出してすぐれているが他の部分は絶望的に立ち遅れているといった例を「大和」と「零戦」に見ることができる。

一点豪華主義が追求され、米国と比べると量産という点では制約があった。米軍は、現在戦っている戦争が一大消耗戦であり、勝利を収めるためには、あらゆる兵器を大量に生産し続ける必要があることを的確に認識していた。そのため、開発にあたっては、徹底した標準化を追求し、量産すること、それによって建造期間の短縮と単位あたりコストの切り下げが可能になる(エクスペリエンス・カーブ)ことを、自動車等の大量生産システムを通じて経験的に熟知していたのであろう。

米軍は高度な技術を開発してもそれをインダストリアル・エンジニアリングの発想から平均的軍人の操作が容易な武器体型に操作化していた。一点豪華で、その操作に名人芸を要求した日本軍の志向とは本質的に異なるものであった。

人的ネットワーク変調の組織構造 #

日本軍とくに陸軍は幕僚統帥的な動きがしだいに顕著になり、これが組織の失敗を招く原因になることも多かった。

日本軍が戦前において高度の官僚制を採用した最も合理的な組織であったはずであるにもかかわらず、その実体は、官僚制のなかに情緒性を混在させ、インフォーマルな人的ネットワークが強力に機能するという特異な組織であることを示している。

陸大出身者を中心とする超エリート集団は、参謀という職務を通じて指揮権に強力に介入し、きわめて強固で濃密な人的ネットワークを形成した。そのため、組織内部におけるリーダーシップは、往々にしてラインの長やトップから発揮されずに幕僚によって下から発揮された。いわゆる幕僚統帥である。陸軍大学校では、議論達者であり、意志強固なことが推奨されるような教育が重視されたため、陸大出身の参謀は、指揮官を補佐するよりもむしろ指揮官をリードし、ときには第一線の指揮官を指揮するような行動をとるものも少なくなかった。

軍事組織としてのきわめて明確な官僚制的組織階層が存在しながら、強い情緒的結合と個人の下剋上的突出を許容するシステムを共存させたのが日本軍の組織構造上の特異性である。本来、官僚制は垂直的階層分化を通じた公式権限を行使するところに大きな特徴が見られる。その意味で、官僚制の機能が期待される強い時間的制約のもとでさえ、階層による意思決定システムは効率的に機能せず、根回しと腹のすり合わせによる意思決定が行われていた。

海軍の場合には、若干状況が異なるように見える。海軍の参謀は、指揮官を補佐するものであって、その指揮権に干渉したり、介入することは戒められていた。高級教育機関である海軍大学校の方針や制度も陸軍大学校とはかなり異なっていた。陸大が主として高級参謀を育成し、参謀を経験しなければ高級指揮官になる機会が非常に限られていたのに対し、海大は入学資格も大尉・少佐と一線指揮官の経験を持った人が多く(陸大は主として中・大尉)、教育方針は将官の育成をめざすものであった。少数の超エリート・グループが形成されたり、彼らが重要な作戦を決定的に左右したりするということはあまり見られなかった。しかし、下剋上的な現象が海軍に見られなかったかといえば、必ずしもそうはいえないのである。海軍の若手幹部はときとして陸軍以上に強硬な下剋上の動きを見せることがあった。これに対応する上級指揮官や軍政のトップ(大臣、次官、軍務局長)も、適切なリーダーシップを十分に発揮したとはいえない。

以上あげたような日本軍の組織構造上の特性は、「集団主義」と呼ぶことができるであろう。ここでいう「集団主義」とは、個人の存在を認めず、集団への奉仕と没入とを最高の価値基準とするという意味ではない。個人と組織とを二者択一のものとして選ぶ視点ではなく、組織とメンバーとの共生を志向するために、人間と人間との間の関係(対人関係)それ自体が最も価値あるものとされるという「日本的集団主義」に立脚していると考えられるのである。そこで重視されるのは、組織目標と目標達成手段の合理的、体系的な形式・選択よりも、組織メンバー間の「間柄」に対する配慮である。日本軍の集団主義的原理は、ときとして、作戦展開・集結の意思決定を決定的に遅らせることによって重大な失敗をもたらすことがあった。

米軍の作戦展開の速さは、豊富な生産力、補給力、物的・人的資源の圧倒的優位性に負っていたが、同時に作戦の策定、準備、実施の各段階において迅速で効果的な意思決定が下されたという組織的特性にもその基盤を置いていた。その一つの表れが交替人事システムである。作戦部員の人数を極力少なくすることに努めたが、それは組織を活性化するには、各自に精一杯仕事を指せることが重要であり、有能な少数の者にできるだけ多くの仕事を与えるのがよいと考えた結果である。しかし、人間は疲れるから、いつまでも同じ仕事を与えるのもまずい。その人間の能力の最良の部分を活用することが、大切である。こう考えて、特定の担当者のほかは、作戦部員を前線の要因と一年間前後で次々と交替させた。これによって、優秀な部員を選抜するとともに、たえず前線の緊張感が導入され、作戦策定に特定の個人のシミがつくこともなかったといわれる。また同時に、意思決定のスピード・アップも可能になったのである。

米海軍のダイナミックな人事システムは、将官の任命制度にも生かされていた。米海軍では一般に将校までしか昇進させずに、それ以後は作戦展開の必要に応じて中将・大将に任命し、その任務を終了するとまたもとに戻すことによってきわめて柔軟な人事配置が可能であった。この点、指揮権について先任、後任の序列を頑なに守った硬直的な日本海軍と大将的である。米軍の人事配置システムは、官僚制が持つ状況変化への適応力の低下という欠陥を是正し、ダイナミズムを注入することに成功したのである。したがって、米軍の組織構造全体は、個人やその間柄を重視する日本軍の集団主義と決定的に異なる原理によって構成されていたとうことができる。

属人的な組織の統合 #

大規模作戦を実施するためには陸・海・空の兵力を統合しなければならない。統合作戦の策定のためには、参謀組織の上部機構に統合システムがビルト・インされる必要がある。米軍の上級参謀組織には、陸軍が参謀総長をヘッドとする参謀本部、海軍には作戦部長に率いられた作戦部とがあった。この点は日本軍と変わらないが、米軍では開戦とともに陸・海二つの参謀組織を統括する統合参謀本部が組織された。陸・海軍の作戦は統合参謀本部において検討され、必要な調整を行ったうえで、統合作戦として統一的な作戦体型を構築することができたし、それは最終的には大統領によって決定され、実施に移される。

日本軍の場合、陸海軍の統合的作戦展開を実現するという大本営の目的が十分達成できなかったのは、組織機構上の不備が大きな理由としてあげられる。大本営にあっては陸海軍部は各々独自の機構とスタッフを持ち、相互に完全に独立し、併存していた。大本営令では、両軍の策応協同を図るよう命じていたが、現実には多くの摩擦や対立が生じた。両軍の協議が整わない場合、これに裁定が下せるのは天皇だけであった。しかし、天皇は個々の問題に対して、自ら進んで指揮、調整権を行使することはなかった。天皇は、陸海軍間の統帥や軍政上の対立については、両者の合意の成立を待ってその執行を命じるという形で自らの帰納を果たしたのである。そのため、実際には陸海軍の作戦上の強力と統合作戦の展開は著しく困難であった。

日本軍の作戦行動上の統合は、結局、一定の組織構造やシステムによって達成されるよりも、個人によって実現されることが多かった。

学習を軽視した組織 #

およそ日本軍には、失敗の蓄積・伝播を組織的に行うリーダーシップもシステムも欠如していたというべきである。

日本軍の精神主義は組織的な学習を妨げる結果になった。相手の装備が優勢であることを認めても、精神力においては相手は劣勢であるとの評価が下されるのがつねであった。敵にもおなじような精神力があることを忘れていたといってもよい。失敗した戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し、それを組織の他の部分へも伝播していくということは驚くほど実行されなかった。これは物事を科学的、客観的に見るという基本姿勢が決定的に欠けていたことを意味する。また、組織学習にとって不可欠な情報の共有システムも欠如していた。日本軍のなかでは自由闊達な議論が許容されることがなかったため、情報が個人や少数の人的ネットワーク内部にとどまり、組織全体で知識や経験が伝達され、共有されることが少なくなかった。作戦をたてるエリート参謀は、現場から物理的にも、また心理的にも遠く離れており、現場の状況をよく知る者の意見がとり入れられなかった。したがって、教条的な戦術しかとりえなくなり、同一パターンの作戦を繰り返して敗北するというプロセスが多くの戦場で見られた。

「本来ならば、関係者を集めて研究会をやるべきだったが、これを行わなかったのは、突っつけば穴だらけであるし、みな十分反省していることでもあり、その非を十分認めているので、いまさら突っついて屍に鞭打つ必要がないと考えたからだった、と記憶する」。戦後、戦争を振り返った参謀の発言からは、対人関係、人的ネットワーク関係に対する配慮が優先し、失敗の経験から積極的に学びとろうとする姿勢の欠如が見られる。

日本軍の教育機関で学ぶ学生にとって、問題はたえず、教科書や教官から与えられるものであって、目的や目標自体を創造したり、変革することはほとんど求められなかったし、また許容もされなかった。ほとんどの場合に問題になるのは、方法であり、手段であった。ときとして、目的・目標ばかりでなく、方法・手段そのものも所与のものとされ、教官が指示するところを半ば機械的に暗記し、それを忠実に再現することが、最も評価され、奨励されさえした。いわば「模範解答」が用意され、その回答への近さが評価基準といるのである。学習理論の観点から見れば、日本軍の組織学習は、目標と問題構造を所与ないし一定としたうえで、最適解を選び出すという学習プロセス、つまり「シングル・ループ学習」であった。しかし、本来学習とはその段階にとどまるものではない。必要に応じて、目標や問題の基本構造そのものをも再定義し変革するという、よりダイナミックなプロセスが存在する。組織が長期的に環境に適応していくためには、自己の行動をたえず変化する現実に照らして修正し、さらに進んで、学習する主体としての自己自体を作り変えていくという自己革新的ないし自己超越的な行動を含んだ「ダブル・ループ学習」が不可欠である。

プロセスや動機を重視した評価 #

信賞必罰は陸軍部内では公正でなかった。積極論者が過失を犯した場合、人事当局は大目にみた。処罰してもその多くは申し訳的であった。一方、自重論者は卑怯者扱いにされがちで、その上もしも過失を犯せば、手厳しく責任を追求される場合が少なくなかった。

このことからも明らかなように、日本軍は結果よりもプロセスを評価した。個々の戦闘においても、戦闘結果よりはリーダーの意図とか、やる気が評価された。

個人責任の不明確さは、評価をあいまいにし、評価のあいまいさは、組織学習を阻害し、論理よりも声の大きな者の突出を許容した。このような志向が、作戦結果の客観的評価・蓄積を制約し、官僚制組織における下剋上を許容していったのである。

要約 #

分類 項目 日本軍 米軍
戦略 1 目的 不明確 明確
2 戦略志向 短期決戦 長期決戦
3 戦略策定 帰納的(インクリメンタル) 演繹的(グランド・デザイン)
4 戦略オプション 狭い 広い
5 技術体系 一点豪華主義 標準化
組織 6 構造 集団主義(人的ネットワーク・プロセス) 構造主義(システム)
7 統合 属人的統合(人間関係) システムによる統合(タスクフォース)
8 学習 シングル・ループ ダブル・ループ
9 評価 動機・プロセス 結果

日本軍の戦略については作戦目的があいまいで多義性を持っていたこと、戦略志向は短期決戦型で、戦略策定の方法論は科学的合理主義というよりも独自の主観的インクリメンタリズムであったこと、戦略オプションは狭くかつ統合性に欠けていたこと、そして資源としての技術体系は一点豪華主義で全体としてのバランスい欠けていたこと、などが指摘された。組織については、本来合理的であるはずの官僚組織のなかに人的ネットワークを基盤とする集団主義を混在させていたこと、システムによる統合よりも属人的統合が支配的であったこと、学習が既存の枠組のなかでの強化であり、かつ固定的であったこと、そして業績評価は結果よりもプロセスや動機が重視されたこと、などが指摘された。

注目すべき点はこうした戦略と組織のさまざまな特性が個々に無関係に存在するのではなく、それぞれの特性の間に一定の相互関係が存在するということである。

日本軍の例で見ると、目的の不明確さは、短期決戦志向と関係があるし、また戦略策定における帰納的な方法とも関連性を持っている。明確なグランド・デザインがない場合には、戦略オプションも限定された範囲のなかでしか生まれてこない。短期決戦志向や全体としての戦略目的が明確でないとすれば、バランスの取れた兵器体型は生まれにくいであろう。それはまた、組織の目標と構造の変革を行うダブル・ループ学習を制約することにつながる。人的ネットワークを中心とする集団主義的な組織構造は、人間関係重視の属人的統合を生み出すし、業績評価においても、結果よりも動機や敢闘精神を重んじることになるであろう。

三章:失敗の教訓 ー 日本軍の失敗の本質と今日的課題 #

日本軍は、自らの戦略と組織をその環境にマッチさせることに失敗したということである。組織の環境適応は、かりに組織の戦略・資源・組織の一部あるいは全部が環境不適合であっても、それらを環境適合的に変革できる力があるかどうかがポイントであるということになる。つまり、一つの組織が、環境に継続的に適応していくためには、こうした能力を持つ組織を、「自己革新組織」という。日本軍という一つの巨大組織が失敗したのは、このような自己革新に失敗したからなのである。

適応力のある組織は、環境を利用してたえず組織内に変異、緊張、危機感を発生させている。あるいはこの原則を、組織は進化するためには、それ自体をたえず不均衡状態にしておかなければならない、といってもよいだろう。不均衡は、組織が環境との間の情報やエネルギーの交換プロセスのパイプをつなげておく、すなわち開放体制(オープン・システム)にしておくための必要条件である。完全な均衡状態にあるということは、適応の最終状態であって組織の死を意味する。逆説的ではあるが、「適応は適応能力を締め出す」のである。

もちろん、ある時点で組織のすべての構成要素が環境に適合することは望ましい。しかし、環境が変化した場合には、諸要素間の均衡関係をつき崩して組織的な不均衡状態を作り出さねばならない。

均衡状態からずれた組織では、組織の構成要素間の相互作用が活発になり、組織の中に多様性が生み出される。多様性が創造されていけば、組織内に時間的・空間的に均衡状態に対するチェックや疑問や破壊が自然発生的に起こり、進化のダイナミックスが始まるのである。

軍事組織は、他の組織と比較して組織内外にたえず緊張が発生し、不安定な組織であると考えられるかもしれないが、それは戦時だけのことである。それは、平時には、企業組織のように常時市場とのつながりを持ち、そこでの競争にさらされ、結果のフィードバックを頻繁に受けるという、開放体制の組織ではないのである。だからこそ、軍事組織は平時にいかに組織内に緊張を想像し、多様性を保持して高度に不確実な戦時に備えるかが課題になるのである。

日本軍は、きわめて安定的な組織だったのではなかろうか。

「彼等(陸海軍人)は思索せず、読書せず、上級者となるに従って反芻する人もなく、批判を受ける機会もなく、式場の御神体となり、権威の偶像となって温室に保護された。永き平和時代には上官の一言一句はなんらの抵抗を受けず実現しても、一旦戦場となれば敵軍の意思は最後の段階まで実力をもって抗争することになるのである。政治家が政権を争い、実業家が同業者と勝敗を競うような闘争的訓練は全然与えられていなかった」(高木惣吉「太平洋海戦史」)

仕事はきまったことのくりかえし、長老は頭の上に載せておく帽子代わりでよい、というのは平和時代のことである。戦時には、トップこそ豊富な経験と知恵の上に想像力と独創力を働かせ、誤りない意思決定をしなければならなかった。

およそイノベーション(革新)は、異質なヒト、情報、偶然を取り込むところに始まる。日本軍は、異端者を嫌った。権力を握ったもののみが、イノベーションを実現できたのである。ボトムアップによるイノベーションは困難であった。およそ日本軍の組織は、組織内の構成要素間の交流や異質な情報・知識の混入が少ない組織でもあった。

日本軍の最大の特徴は「言葉を奪ったことである」という指摘にもあるように、組織の末端の情報、問題提起、アイデアが中枢につながることを促進する「青年の議論」が許されなかったのである。

自己革新組織は、その構成要素に方向性を与え、その協働を確保するために統合的な価値あるいはビジョンを持たなければならない。自己革新組織は、組織内の構成要素の自律性を高めるとともに、それらの構成単位がバラバラになることなく総合力を発揮するために、全体組織がいかなる方向に進むべきかを全員に理解させなければならない。組織成員の間で基本的な価値が共有され信頼関係が確立されている場合には、見解の差異やコンフリクトがあってもそれらを肯定的に受容し、学習や自己否定を通してより高いレベルでの統合が可能になる。ところが、日本軍は、陸・海軍の対立に典型的に見られたように、統合的価値の共有に失敗した。

日本軍の失敗の本質とその連続性 #

自己革新組織とは、環境に対して自らの目標と構造を主体的に変えることのできる組織であった。米軍は、目標と構造の主体的変革を、主としてエリートの自律性と柔軟性を確保するための機動的な指揮官の選別と、科学的合理主義に基づく組織的な学習を通じてダイナミックに行った。

日本軍には、米軍に見られるような、静態的官僚制にダイナミズムをもたらすための、① エリートの柔軟な志向を確保できる人事教育システム、② すぐれた者が思い切ったことのできる分権的システム、③ 強力な統合システム、が欠けていた。そして日本軍は、過去の戦略原型にはみごとに適応したが、環境が構造的に変化したときに、自らの戦略と組織を主体的に変革するための自己否定的学習ができなかった。

そのような血管の本質は、日本軍の組織原理にある。陸軍は、ヨーロッパから官僚制という高度に合理的・階層的組織を借用したが、それは官僚制組織が本来もっているメリットを十分に機能させる形で導入されていなかった。戦前における最も進んだ官僚制組織は軍隊であるといわれてきたが、日本軍のそれは官僚制と集団主義が奇妙に入り混じった組織であった。階層がありながら、ほどよい情緒的人的結合(集団主義)と個人の下剋上的突出を許容するシステムを共存させていた。それが機能しえたのは、① 現場第一線の自由裁量と微調整が機能する、② すぐれた統合者を得て有効な属人的統合がなされる、③ 自動的コンセンサスが得られる状況にある(勝ち戦、白星、成長期)、などの条件が満たされた場合だけであった。

以上の点から、日本軍は、近代的官僚制組織と集団主義を混合させることによって、高度に不確実な環境下で機能するようなダイナミズムを有する本来の官僚制組織とは異質の、日本的ハイブリッド組織を作り上げたのかもしれない。しかも日本軍エリートは、このような日本的官僚制組織の有する現場の自由裁量と微調整主義を許容する長所を、逆に階層構造を利用して圧殺してしまったのである。そして、日本軍の最大の失敗の本質は、特定の戦略原型に徹底的に適応しすぎて学習棄却ができず自己革新能力を失ってしまった、ということであった。

戦後、日本軍の組織的特性は、まったく消滅してしまったのであろうか。それは連続的に今日の日本の組織のなかに生きているのか、それとも非連続的に進化された形で生きているのだろうか。

日本軍の持っていた組織的特質を、ある程度まで創造的破壊の形で継承したのは、おそらく企業組織であろう。戦後の日本の企業組織にとって、最大の革新は財閥解体とそれに伴う一部トップ・マネジメントの追放であった。これまでの伝統的な経営層が一層も二層もいなくなり、思い切った若手抜擢が行われたのである。その結果、官僚制の破壊と組織内民主化が著しく進展し、日本軍の最もすぐれていた下士官や兵のバイタリティがわき上がるような祖 s 機が誕生したのである。

日本的経営が戦前すでに確立されていたのか、それとも戦後に確立されたものなのかについては、議論のあるところである。しかしながら最も大きな非連続的進化は、権威の否定が敗戦とう外在的要因によってもたらされたということである。これは、日本的官僚制組織にとって、きわめて大きな価値観の転換でもあった。公職追放によって、突如抜擢された若手経営者は、戦後の企業再建過程のなかで激しい労働運動に対処するために、食わんがための、ナベ、カマ、弁当箱などの製造・販売さえもやりながら、「われわれは同じ仲間ではないか」、「一緒にやろうじゃないか」を合言葉に平等主義を定着させていった。このような権威の否定と仲間意識のなかから、下士官・兵の強かった日本軍は民主主義の旗の下に、その長所を最大限に生かすような形で自己否定的に再生したとも考えられる。

しかし同時に、これらの人々の多くは長年にわたる統制経済と軍隊における体験しか持たなかったため、新しい自由競争下の企業経営の経験に乏しかった。また、復員者を含めた多数の従業員をかに統率するかとう課題に直面していた。そのため彼等の軍隊における経験が活用されることになった。率先垂範の精神や一致団結の行動規範は、日本軍のもっていたいい意味での特質であったといえる。意識すると否とにかかわらず、日本軍の戦略発想と曽々木的特質の相当部分は戦後の企業経営に引き継がれているのである。

加護野忠男ほかの日本企業の経営比較によれば、日本企業の戦略と組織の強みは次のように指摘されている。(『日米企業の経営比較』)

戦略について

日本企業の戦略は、論理的・演繹的な米国企業の戦略策定に対して、帰納的戦略策定を得意とするオペレーション志向である。この長所は、継続的な変化への適応能力をもつことである。変化に対して、帰納的かつインクリメンタルに適応する戦略は、環境変化が突発的な大変動ではなく継続的に発生している状況では強みを発揮する。戦後の日本は、欧米をモデルとしながら、経済成長を実現してきたが、この過程では量的な拡大と対応して、多様な変化が混在しながら継続的に発生していた。このような変化がもたらす機会や脅威に対応するためには、適応のタイミングを失わないように、変化に対して微調整的な対応を行わなければならない。

以上のような強みは、大きなブレイク・スルーを生み出すことよりも、一つのアイデアの洗練に適している。製品ライフサイクルの成長後期以後で日本企業が強みを発揮するのは、このためである。

組織について

日本企業の組織は、米国企業のような公式化された階層を構築して規則や計画を通じて組織的統合と環境対応を行うよりは、価値・情報の共有をもとに集団内の成員や集団間の頻繁な相互作用を通じて組織的統合と環境対応を行うグループ・ダイナミックスを生かした組織である。その長所は、次のようなものである。

  1. 下位の組織単位の自律的な環境適応が可能になる。
  2. 定型化されないあいまいな情報をうまく伝達・処理できる。
  3. 組織の末端の学習を活性化させ、現場における知識や経験の蓄積を促進し、情報感度を高める。
  4. 集団あるいは組織の価値観によって、人々を内発的に動機づけ大きな心理的エネルギーを引き出すことができる。

しかしながら以上の長所も、戦略については、① 明確な戦略概念に乏しい、② 急激な構造的変化への適応がむずかしい、③ 大きなブレイク・スルーを生み出すことがむずかしい、組織については、① 集団間の統合の負荷が大きい、② 意思決定に長い時間を要する、③ 集団思考による異端の排除が起こる、などの欠点を有している。そして、高度情報化や業種破壊、さらに、先進地域を含めた海外での生産・販売拠点の本格的展開など、われわれの得意とする体験的学習だけからでは予測のつかない環境の構造的変化が起こりつつある今日、これまでの成長にうまく適応してきた戦略と組織の変革が求められているのである。とくに、異質性や異端の排除とむすびついた発想や行動の均質性という日本企業の持つ特質が、逆機能化する可能性すらある。

さらにいえば、戦後の企業経営で革新的であった人々も、ほぼ四〇年を経た今日、年老いたのである。戦前の日本軍同様、長老体制が定着しつつあるのではないだろうか。米国のトップ・マネジメントに比較すれば、日本のトップ・マネジメントの年齢は異常に高い。日本軍同様、過去の成功体験が上部構造に固定化し、学習棄却ができにくい組織になりつつあるのではないだろうか。

日本的企業組織も、新たな環境変化に対応するために、自己革新能力を創造できるかどうかが問われているのである。