読書メモ:民主主義

読書メモ:民主主義

January 2, 2023

角川ソフィア文庫から出版されている「民主主義」を年末年始の空いた時間に読んだ。

第二次世界大戦に敗戦直後の日本において、民主主義の普及のために当時の文部省が刊行した中高生向けの教科書がもとになっている。本書はその復刻版だ。この本は 2018 年の 10 月に出版され、出版当時に購入し読了した。

このたび再読したことの記録代わりに、ここでは多数決に関する章を本書から転記する。「誰にも正解はわからないからとりあえず多数決して進む道を決めよう。しばらく進んだ後でまた多数決をしよう。もし進むべき道を誤ったと皆が感じていれば自ずと多数決の結果に反映されるはずだ。結果に応じて進む道を変えよう。そうしたらまたどこかで多数決で確認しよう。」噛み砕くと本書ではこのように説かれているが、これはシステム開発におけるアジャイル開発とも親和性があるように感じられる。

第五章 多数決 #

一 民主主義と多数決 #

人間はそれぞれ、天分も違うし、性質も異なるし、境遇もまちまちであるし、趣味や好みもさまざまである。それを一つの型に当てはめてしまうということは、けっして人間を尊重するゆえんではない。だから、人間の尊重ということを根本の精神とする民主主義は、何よりも人々の個性を重んずる、すべての人々が自由にその個性を伸ばし、持って生まれた天分を大いに発揮して世の中の役にたつことができるように、平等の機会と教育の自由とを保証しようとする。そういうふうにしてできあがった社会では、各人が思うことを言い、信ずるところに従って行動し、公共の福祉に反しないかぎり「自分自身になりきる自由」を持っているはずなのである。

それであるから、民主主義の政治を行う場合には、多くの人々の中からいろいろな意見が出て、かっぱつに議論がたたかわせられることになる。各人が自分の判断を主張し、自分の正しいと信ずることを行おうとするのであるから、そうして、各人がそれぞれ違った立場から違った意見を提出するのであるから、当然の結果として、さまざまな見解の対立が起り、利害の衝突を来すことを免れない。それは、見方によっては好ましくない、不愉快なことであるかもしれない。しかし、そこに民主政治の鼓動があり、活力がある。それが止まってしまえば、民主主義は死んでしまうであろう。

けれども、法律を作ったり、政治の方針を決めたりする場合に、みんなが違った意見を主張し、お互の判断を固執して譲らないということになると、いつまでたっても結論に達することができない。各人の考えは尊重しなければならないが、さればといって、互に対立するどの考えにも同じように賛成し、甲の意見ももっともだ、乙の主張にも理由があると言ってばかりいたのでは、一つの方針でもって実際問題を解決することは不可能になる。そこで、民主主義は多数決という方法を用いる。みんなでじゅうぶんに議論をたたかわせたうえで、最後の決定は多数の意見に従うというのが、民主政治のやり方である。ある一つの意見を原案として掲げ、手をあげたり、起立したり、投票したりして、賛成かどうかを問い、原則として過半数が賛成ならばその案を採用し、賛成者が少数ならばこれを否定する。そうして、一度決めた以上は、反対の考えの人々、すなわち、少数意見の人々もその決定に従って行動する。それが多数決である。多数による決定には、反対の少数意見のものも服するというのが、民主主義の規律であって、これなくしては政治上の対立は解決されず、社会生活の秩序は保たれえない。

二 多数決原理に対する疑問 #

ところで、多数決ということは、一つの便宜的な方法である。元来、法律は正しいものでなければならない。政治は正しい方針によって行われなければならない。しかし、どうするのが正しいかについては、いろいろと意見が分かれていて、いくら議論を続けても、意見の一致点を見いだすことができないという場合には、法律を作ることも、政治の方針を決めることもできないから、やむをえず多数決によるのである。

しかしながら、多数の意見だからかならず正しいと言いうるであろうか。少数の賛成者しか得られないから、その主張は、当然まちがっていると考えてよいものであろうか。そうは言いえないことは、もとより明らかである。実際には、多数で決めたことがあやまりであることもある。少数の意見の方が正しいこともある。むしろ、少数のすぐれた人々がじっくりと物を考えて下した判断の方が、おおぜいでがやがやと不和雷同する意見よりも正しいことが多いであろう。いや、国民の中でいちばん賢明なただひとりの考えが、最も正しいものであるということができるであろう。それなのに、なぜその少数のすぐれた人々、最も賢明なただひとりの人の意見を初めから採用しないで、おおぜいにかってな意見を言わせ、多数決というような機械的な方法で、その中のどれか一つに決めるというやり方を行う必要があるのであろうか。

多数決に対しては、昔からそういうもっともな疑問がある。いや、単に疑問があるばかりではない。それだから、多数の意見によって船を山にあげるような民主政治をやめて、最も賢明な人に政治の実権を任せてしまう方がよい、という議論がある。その中でも最も有名なのは、ギリシアの哲学者プラトンの唱えた哲人支配論である。

プラトンは、おおぜいの愚者が数の力で政治を行う民主主義を排斥し、最もすぐれた理性と、最も高い批判力とを備えた哲人が政治を指導するような組織こそ、堕落した人間の魂を救う理想の国家形態であると論じた。このプラトンの理想国家論が後世の政治哲学の上に及ぼした影響は、きわめて大きい。

けれども、プラトンの理想国家論は、政治の理想であるかもしれないが、これをそのまま現実に行おうとすると、かならず失敗する。なぜならば、最も賢明だと称する人に政治の全権をゆだねて、一般の国民はただその哲人の命令に服従してゆけばよいというのは、けっきょくは独裁主義にほかならないからである。独裁主義によれば、独裁者は国民の中でいちばん偉い人だから、その人の意思に従っていればまちがいはないという。しかし、独裁者が国民の中でいちばん偉い、いちばん賢明な人物であるということは、いったいだれが決めるのであろうか。独裁者のお取り巻きがそう言ったからといって、それがそうであろうという保証にはならないし、実際にはそれが大変なまやかしものであろうかもしれない。また、よしんば独裁者が本当に偉い人であったとしても、同じ人間が長いこと大きな権力を握っていると、必ず腐敗が起り、堕落が生ずる。そうして、権力が少数の人々に集中しているために、それが薬にならずに、毒となって作用する。その悪い作用を国民に隠して、独裁政治のいい点だけを宣伝するために、いろいろなうそをいう。無理な政治をして、華々しい成功を誇ろうとする。その結果は、無理に無理を重ねて、国民をならくのふちにおとしいれるような、取り返しのつかない失敗を演ずる。ヒトラーを無類の英雄に仕立てて、これこそプラトンの理想国家を実現したようなものだと自慢していたナチス・ドイツの運命は、独裁政治を二度と再び繰り返してはならないという教訓を、人類にはっきりと示したものであるといわなければならない。

独裁主義は、民主政治を「衆愚政治」だと言って非難する。なるほど、民主主義も、そういう弊害に陥ることがないとはいえない。しかし、教育が普及し、知識が向上した今日の国民は、プラトンの時代の国民とは違う。国民が健全な政治道徳を心得てさえいれば、おおぜいの人々の考えを集めてことを議してゆくことは、「船頭多くして船山にのぼる」結果にはならないで、「三人寄れば文殊の知恵」という利益を大いに発揮することができる。政治のたいせつな要点を国民に隠して、ただ指導者の言うがままについて来させたのでは、国民の中にある知恵の鉱脈を掘り当てることができない。そうして、国民がめくらにされるばかりでなく、独裁者もまた国民からの批判を受ける機会がないから、自分自身もめくらになって、馬車うまのように破滅のふちに突進してしまう。その危険を避けるためには、なるべく多くの人々が政治に参与して、多数決で意見をまとめてゆくという以外に、良い方法はないのである。

それに、民主主義もまた、決してただ玉石混交の衆議だけを重んずるのではなく、国民の間から見識のすぐれた人を選んで、その人に政治を任せるという方法をも用いるのである。国民がみんなで法律を作ることを議する代わりに、国会議員を選挙し、その道の熟練家に立法の仕事を任せるのも、それである。国会の指名によって内閣総理大臣を立て、他の国務大臣には内閣総理大臣がこれはと思う人々を選び、その政府が行政をつかさどってゆくようなしくみになっているのも、それである。ただ、立法権にせよ、行政権にせよ、ある決まった人たちだけが長くそれをひとり占めしていると、きっといろいろな弊害が生ずる。ちょうど、水が長いこと一箇所にたまっていると、ぼうふらがわいたり、腐ったりするように。だから、民主政治では、国会議員の任期をかぎって、たびたび総選挙を行い、それとともに政府の顔ぶれも変わるようにして、常に政治の中心に新しい水が流れ込むようなくふうがしてある。つまり、民主政治は、「多数決主義」と「選良主義」との長所をとって、それを組み合わせたようなぐあいになっているということができよう。

三 民主政治の落とし穴 #

しかし、それにしても、民主政治を運用してゆく根本のしかたが多数決であることには変わりはない。国民の間から国会議員を選ぶにしても、最も多くの投票を得た人が当選する。国会で法律を作る場合にも、多数でその可否を決する。内閣総理大臣を指名するのも、国会での多数の意向によるのである。したがって、民主政治は「多数の支配」である。多数で決めたことが、国民全体の意思として通用するのである。

しかるに、前に言ったように多数の意見だからその方が常に少数の意見よりも正ということは、けっして言いえない。中世の時代には、すべての人々は、太陽や星が人間の住む世界を中心にしてまわっているのだと信じていた。近世の初めになって、コペルニクスやガリレオが現れて、天動説の誤りを正した。その当時には、天動説は絶対の多数意見であった。地動説を正しいと信じたのは、ほんの少数の人々にすぎなかった。それと同じように、政治上の判断の場合にも、少数の人々の進んだ意見の方が、おおぜいが信じて疑わないことよりも正しい場合が少なくない。それなのに、なんでも多数の力で押しとおし、正しい少数雨の意見には耳もかさないというふうになれば、それはまさに「多数党の横暴」である。民主主義は、この弊害を、なんとかして防いでゆかなければならない。

多数決という方法は、用い方によっては、多数党の横暴という弊を招くばかりでなく、民主主義そのものの根底を破壊するような結果に陥ることがある。なぜならば、多数の力さえ獲得すればどんなことでもできるということになると、多数の勢いに乗じて一つの政治方針だけを絶対に正しいものにまでまつりあげ、いっさいの反対や批判を封じ去って、一挙に独裁政治体制を作り上げてしまうことができるからである。

もう一度、ドイツの場合をひきあいに出すことにしよう。

第一次世界大戦に負けたドイツは、ワイマールという町で憲法を作って、高度の民主主義の制度を採用した。ワイマール憲法によると、国の権力の根源は国民にある。その国民の意思に基づいて国政の中心をなすものは、国会である。国会議員は、男女平等の普通選挙によって選ばれ、法律は国会の多数決で定め、国会の多数党が中心となって内閣を組織し、法律によって政治を行う。そういうしくみだけからいえば、ワイマール憲法のもとでのドイツは、どこの国にもひけを取らないりっぱな民主国家であった。

ところが、国会の中にたくさんの政党ができ、それが互に勢力を争っているうちに、ドイツ国民はだんだんと議会政治に飽きて来た。どっちつかずのふらふらした政党政治の代わりに、一つの方向にまっしぐらに国民を引っ張ってゆく、強い政治力が現れることを望むようになった。そこへ出現したのがナチス等である。初めはわずか七名しかなかまがいなかったといわれるナチス党は、たちまちのうちに国民の中に人気を博し、一九三三年一月の総選挙の結果、とうとうドイツ国会の第一党となった。かくて内閣を組織したヒトラーは、国会の多数決を利用して、政府に行政権のみならず立法権をも与える法律を制定させた。政府が立法権を握ってしまえば、どんな政治でも思うがままに行うことができる。議会は無用の長物と化する。ドイツは完全な独裁主義の国となって、国民はヒトラーの宣伝とナチス党の弾圧とのもとに、まっしぐらに戦争へ、そうして、まっしぐらに破滅へとかり立てられていったのである。

動物の世界にも、それによく似た現象がある。すなわち、ほととぎすという鳥は、自分で巣を作らないで、うぐいすの巣に卵を産みつける。うぐいすの母親は、それと自分の産んだ卵とを差別しないで暖める。ところが、ほととぎすの卵はうぐいすの卵よりも孵化日数が短い。だから、ほととぎすの卵の方が先にひなになり、だんだんと大きくなってその巣を独占し、うぐいすの卵を巣の外に押し出して、地面に落としてみんなこわしてしまう。

多数を占めた政党に、無分別に権力を与える民主主義は、愚かなうぐいすの母親と同じことである。そこを利用して、独裁主義のほととぎすが、民主政治の巣ともいうべき国会の中に卵を産みつける。そうして、初めのうちはおとなしくしているが、ひとたび多数を制すると、たちまち正体を現わし、すべての反対党を追い払って、国会を独占してしまう。民主主義はいっぺんにこわれて、独裁主義だけがのさばることになる。ドイツの場合は、まさにそうであった。こういうことが再び繰り返されないとはかぎらない。民主国家の国民は、民主政治にもそういう落とし穴があることを、じゅうぶんに注意してかかる必要がある。

四 多数決と言論の自由 #

多数決の方法に伴うこのような弊害を防ぐためには、何よりもまず言論の自由を重んじなければならない。言論の自由こそは、民主主義をあらゆる独裁主義の野望から守るたてであり、安全弁である。したがって、ある一つの政党がどんなに国民の多数を占めることになっても、反対の少数意見の発言を封ずるということは許されない。いくつかの政党が並び存して、互に批判し合い、議論をたたかわせあうというところに、民主主義の進歩がある。それを、「挙国一致」とか「一国一党」とかいうようなことを言って、反対党の言論を禁じてしまえば、政治の進歩もまた止まってしまうのである。だから、民主主義は多数決を重んずるが、いかなる多数の力をもってしても、言論の自由を奪うということは絶対に許されるべきでない。何事も多数決によるのが民主主義ではあるが、どんな多数といえども、民主主義そのものを否定するような決定をする資格はない。

言論の自由ということは、個人意志の尊重であり、したがって、少数意見を尊重しなければならないのは、そのためである。もちろん、国民さえ賢明であるならば、多数意見の方が少数意見よりも真理に近いのが常であろう。しかし、多数意見の方が正しい場合にも、少数の反対説のいうところをよく聞き、それによって多数の支持する意見をもう一度考え直してみるということは、真理をいっそう確かな基礎の上におくゆえんである。これに反して、少数説の方がほんとうは正しいにもかかわらず、多数の意見をむりにとおしてしまい、少数の人々の言うことに耳を傾けないならば政治の中にさしこむ真理の光はむなしくさえぎられてしまう。そういう態度は、社会の陥っている誤りを正す機会を、自ら求めて永久に失うものであるといわなければならない。

だから、多数決によるのは、多数の意見ならば正しいと決めてかかることを意味するものではないのである。ただ、対立する幾つかの意見の中でどれが正しいかは、あらかじめ判断しえないことが多い。神ならば、その中でどれが真理であるかを即座に決定しうるであろう。しかし、神ならぬ人間が、神のような権威をもって断定を下すことは、思いあがった独断の態度にほかならないのである。さればといって、どれが進むべきほんとうの道であるかわからないというだけでは、問題はいつまでたっても解決しない。だから、多数決によって一応の解決をつけるのである。つまり、多数決は、これならば確かに正しいと決定してしまうことではなくて、それで一応問題のけりをつけて、先に進んでみるための方法なのである。

それでは、対立する幾つかの意見の中でどれが正しいかは、いつまでたってもわからないのであろうか。

いや、決してそんなことはない。正しい道と正しくない道との区別は、やがてはっきりとわかる時が来る。何でわかるかというと、経験がそれを教えてくれるのである。神ならぬ人間には、あらかじめその区別を絶対の確実さをもって知ることはできない。しかし、一応多数決によって問題のけりをつけ、その方針で法律を作り、政治をやってみると、その結果は、まのなく実地のうえに表れてくる。公共の福祉のためにやはりその方がよかった、と言うことになる場合もある。逆に、多数の意見で決めた方針がまちがっていて、少数意見に従っておいた方がよかったということが、事実によって明らかに示される場合もある。前の場合ならば、それはそのままでよい。あとのような場合には、少数意見によって示された方針によって法律を改め、政治のやり方を変えてゆく必要が起る。その場合には、国民はもはや前の多数意見を支持しないであろう。反対に、今までは少数であった意見の方を多くの人々が支持するようになるであろう。そうなれば、以前の多数意見は少数意見になり、少数意見は多数意見に成長して、改めて国会で議決することにより、法律を改正することができる。このようにして、法律がだんだんと進歩していって、政治が次第に正しい方向に向かうようになってゆく。かくのごとくに、多数決の結果を絶えず経験によって修正し、国民の批判と協力とを通じて政治を不断に進歩させてゆくところに、民主主義の本当の強みがある。少数の声を絶えず聞くという努力を怠り、ただ多数決主義だけをふりまわすのは、民主主義の堕落した形であるにすぎない。

独裁者は豪語する「予の判断に狂いはない、予の示す方向は必ず正しい。人民どもよ、黙ってついてこい。批判や反対は許さない。現在の犠牲をいとうな。将来の幸福は予が保証する。よしんばおまえたちは苦しみの生涯を送るとしても、その苦労はお前たちの子孫の幸福となって実を結ぶ。だから、しんぼうせよ。民族の繁栄のために。国家の発展のために」と。

国民の大部分は、独裁者のこの予言に陶酔する。他の人々は、これを疑い、これに反対の考えをいだいているが、その気持をおもてに表せば縛られる。だから、しかたなしについてゆく。独裁者の予言がとほうもない「から手形」であったことがわかる日まで。

この独裁者のごうまんなことばに対して、民主主義は説く。「政治は国民の政治である。政治のもたらす福利は、国民自ら刈り取ることができる。しかし、それには、国民自身がよく土地を耕し、よい種をまき、女装や施肥や灌水に不断の努力をしなければならない。いろいろと困難な事情のあるこの世の中で、みごとな政治の実をみのらせるためにはどうすればよいか。その方法は、国民自らが考え、だれもが遠慮なく意見を言い、みんなの相談で決めて行くべきだ。しかし、みんなの意見が一致することは容易にありえない。だから、多数決によって一つの方針を採用し、みんなでその方針のもとに協力してゆく必要がある。もしも多数決で決めたやり方が悪ければ、その結果は秋の収穫のうえにはっきりと現れるであろう。そうしたら、来年はその経験を生かして、別の方針でやってみるがよい。そうやってゆくうちに、今日の困難はだんだんと克服されて、国民自身の幸福のためのりっぱな政治のみのりをあげることができるに相違ない。多数決の結論がときにまちがうことがあるからといって、多数決の方法を捨ててはならない。多数決の方法を捨てれば、かならず独裁主義になる。多数決の方法を取りながら、多数決の犯したまちがいを、更に多数決によって正してゆくのが、ほんとうの民主主義である」と。

五 多数決による政治の進歩 #

今日の人類は、無限の宝を持っている。火山を爆発させる水蒸気の力を利用して汽車や汽船を運転する。昔の人が雷神のしわざとして恐れていた電気を用いて、やみを照らし、工場の機械を動かし、電車を走らせる。何千メートルの地下から石油をくみ上げて、モーターをまわし、飛行機を飛ばす。今度の戦争の末期に現れた原子力爆弾は、人類を破滅させしめるような恐るべき武器であるが、その同じ原子力を平和の用途にあてれば、どれほど大きな福祉を人類のためにもたらすかわからない。これらの無限の知識の宝は、人類の長い努力と経験によって得られたのである。無限に多くの人々がそのために協力しているのである。鉄びんのふたを押し上げる水蒸気の力にヒントを得て蒸気機関を発明したのはワットであり、それを応用して汽関車を作ったのはスティーヴンソンであった。しかし、そのころのおもちゃのような汽車から、豪華な列車を引いて時速百キロで走る現代の汽関車になるまでには、無数の技師や職工の血のにじむような努力が積み重ねられている。その間には、何度失敗が繰り返されたかしれない。しかし、失敗は発明の母である。一度の失敗にこりて、改善の試みをやめたならば、人類の進歩は、とうの昔に止まってしまったに相違ない。

それと同じことが、政治についても言える。政治をやって、一度で完全に成功しようというのはあまりにも虫のよい話である。人間社会の出来事は、蒸気や電気のような自然現象よりも、はるかに複雑である。だから、社会のことを取り扱う政治には、自然力を利用する技術よりも、ずっと失敗が多い。その失敗を生かして、だんだんとよい政治を築きあげてゆくのは、国民全体の責任である。みんなが自由に意見を語り、多数決で政治の方針を立て、やってみてぐあいの悪いところは、またみんなの相談で直す。それが民主主義である。その手間と苦労とをいとって、ひとりの考えだけにすべてを任せ、一度ではなばなしい成功を収めようとするのが、独裁政治である。それは、神社に祈ってさえいれば神風が吹くと思うのと同じことである。天は自ら助けるものを助ける。人任せの政治に神風が吹く道理があろうか。

それであるから、民主政治は多数決に誤りがありうることを、最初から勘定にいれているのである。しかし、なろうことなら、政治も無駄をしない方がよい。多数で決めたことが、初めから正しい政治の方向と一致している方が望ましい。それには、国民の政治上の教養を高めることが、第一の条件である。多数決によって運用される民主主義を非難するものは、口をそろえて民主主義は衆愚政治だという。なるほど、国民がそろってばか者の集まりならば、おおぜいのばか者が信ずることほど、まちがいが大きいということになろう。しかし、国民の間に知識が普及し、教養が高まってゆきつつある今日、依然としてそういうことを考えるのは、自分自身がいちばんの愚か者であることを証拠だてているのである。そういう人間は、裏長屋の貧乏人や台所のおさんどんに選挙権を与えれば政治が乱れるといって、普通選挙や婦人参政権に反対した。ところが、今日の多くの国々では、選挙権が拡大されるにつれて、ますます明るいよい政治が行われるようになってきている。

それでは、日本はどうであろうか。日本人は、自分たちでほんとうの政治上の自覚を持つ前に、戦争の結果として最も広い政決参与の権利を得た。独裁主義は追放されて、万事が選挙と多数決とで行われる世の中となった。これで、これからの日本の政治が明るく築きあげられてゆくであろうか、もしも国民が、今までのように政治的に無自覚であれば、それはおぼつかない。これに反して、みんなが勉強して政治に興味をもち、自分たちの責任と努力とをもって多数決の原理を正しく運用してゆくならば、やがて焦土の上にも明朗な世の中が築きあげられるであろう。世界じゅうの人がそれを見守っている。そこへ至る道は、国民のひとりひとりが毎日踏みしめてゆく正しい一歩一歩によって開かれるのだ。