フィリピン留学準備 - 多読「かえるくん、東京を救う」
December 27, 2019
フィリピン留学に向けた事前勉強。多読を兼ねて読書しましたのでその記録です。
「かえるくん、東京を救う」村上春樹 #
amazon リンク - 「かえるくん、東京を救う」
村上春樹による小説です。原文(日本語)と英訳版が両方記載されている対訳本です。加えて、英訳版に対する解説ページもついています。この本は 2014 年に NHK 出版から販売されました。
内容の構成手について、具体的には、見開きで左側に英訳/右側に原文となっている物語のページが1ページおかれたあと、解説ページが続きます。その後また見開き1ページ分物語のストーリーが進み、また解説があり…といったように構成されています。ページ数は下記の通りです。
- 英訳ページ:39 ページ
- 原文ページ:39 ページ
- 解説ページ:約 200 ページ
短編小説であり物語はページ数にして 39 ページです。そのため村上春樹の小説を英語で読むとはいえ、気楽に読むことができると思います。
ページ数をご覧いただければお分かりになると思いますが、解説が非常に濃厚です。解説は、「ここでは分詞構文が、ここでは強調構文が、ここは自由間接話法が使われている」といった語学・文法的な解説と、「どのような解釈・意図でこの英文に翻訳されたのか」といった翻訳の観点で説明が行われています。
さて、物語のあらすじは下記の通りです。
物語は、ある日、新宿の信用金庫に勤める平凡なサラリーマンの片桐が帰宅したところ、自宅のアパートの部屋の中で背丈が2メートル以上もある巨大な蛙が待っていた、という光景から始まります。人間の言葉を話すその蛙は、なぜか自分のことを「かえるくん」と呼ぶように片桐に要求したうえで、驚くべき話をします。新宿の地下で「みみずくん」が怒っていて、神戸に続いて東京で大地震を起こそうとしている。15 万人もの犠牲者が出る大惨事を未然に防ぎ、東京を破滅から救うために、「かえるくん」は地下にもぐって「みみずくん」と対決しなければならない。そのためには片桐のようなごく普通の人間の協力が必要なのだ、というのです。ほとんど何の取り柄もない片桐のような平凡な男に何ができるのか。はたして、東京は壊滅から救われるのだろうか……。
「かえるくん、東京を救う」まえがき
タイトルの「かえるくん、東京を救う」は英訳されると「Super-Frog Saves Tokyo」になります。夏目漱石の「吾輩は猫である」の英訳が「I am a cat」なのは有名ですが、原文と英訳だとやはり受ける印象がどうしても変わってしまいますよね。「かえるくん」と「Super-Frog」だとまったく別物です。
例えば、本文中に下記のやりとりが出てきます。原文と英訳を見てみましょう。
「ねえ、かえるさん」と片桐は言った。 「かえるくん」とかえるくんはまた指を一本立てて訂正した。 「ねえ、かえるくん」と片桐は言い直した。
“To tell you the truth, Mr. Frog - " “Please,” Frog said, raising one finger again. “Call me ‘Frog.’ " “To tell you the truth, Frog,” Katagiri said,
「かえるくん、東京を救う」原文・英訳
やはり受ける印象が変わりますよね。実際、これに対して下記のように解説されています。
片桐が Mr. Frog と呼びかけると、「Frog と呼んでください」と訂正される。Mr. Frog の原文は「かえるさん」。つまり、原文における「かえるくん」と「かえるさん」を英訳では Frog と Mr. Frog で訳し分けている。原文の「かえるくん」と「かえるさん」の違いの1つとして、呼びかけるときの親近感・距離感の相違がある。それを反映した英訳と考えられる。英米では、親しい人に対してファーストネームで呼びかけ、それ以外の一般的なシチュエーションでは名字に Mr./Mrs./Ms./Miss という敬称をつけて呼ぶということがよく知られている。この場合、大文字で始まる Frog は名前(もしくはニックネーム)であるということが理解されており(少なくとも文字を読む読者には)、それがファーストネームか名字であるかはともかく、Mr.をつけることで距離感や丁寧さが増す。それに対して Frog に訂正されるということは距離感を縮めることを意味すると言えるわけである。
なお、英語には Mr./Mrs./Ms.(=既婚・未婚にかかわらず女性に対して用いる敬称)/Miss 以外に、口頭で呼びかける敬称や呼称はなく、日本語の「~くん」や「~ちゃん」、あるいは「~様」などを英語で話すことは基本的にできない。従って、この場合は敬称を伴うか伴わないかでその距離感を表していると言える。ただし、原文の「かえるくん」と「かえるさん」にはその他の相違もあると言えるであろう。例えば「かえるくん」という呼び方からは、「かえるくん」の子供っぽさや若さをイメージするかもしれない。
しかし、英訳では Frog と Mr. Frog の違いだけではそのようなことを想起することができない。また、自分で自分のことを「かえるくん」と呼ぶのは一種の性格付けであると言える。少し不思議な「かえるくん」のキャラクターに対して、「かえるさん」と「さん」をつけて呼ぶ片桐は日本人の典型のようでもあり、一風変わった「かえるくん」に対して真面目な「片桐」とう対象が浮かび上がる。その点に関して英訳では、 “Call me ‘Frog’ " と言われて Mr. Frog と呼びかける Katagiri のほうが一風変わった印象を与えるかもしれない。このように、日本語の「~くん」がもたらす効果がすべて英訳に反映されているわけではない。
「かえるくん、東京を救う」 解説
それにしても解説が濃厚すぎますね笑
ちなみに、かえるくんは極めて紳士的な性格なのですが、それも英文だと表現しきれていないように感じます。以下はかえるくんの発言です。解説も合わせてご覧ください。
片桐さん、家に帰ったら、とつぜん大きな蛙が待っていたりしたら、誰だって驚きます。しかしとても大事な急ぎの要件があったのです。失礼の段はお許しください。
“Anyone would be shocked to find a big frog waiting for him at home. But an urgent matter brings me here. Please forgive me.”
(解説) Please forgive me
「申し訳ない」。決まった言い方。字義通り訳せば「私を許してください」、つまり「私の失礼をお許しください」ということ。多少改まった言い方ではあるが、軽く「失礼」という意味でも Forgive me は使われることがある。一方原文は「失礼の段はお許しください」と非常に丁寧で、改まった言い方である。
「かえるくん、東京を救う」 原文・英訳・解説
やはり多少なりとも印象が変わります。
ここで私が言いたいのは、英訳が悪いということではなくて、翻訳には限界があるということ、つまり、異なる言語の間には決して越えられない壁があるということです。
言語を変換する際にはどうしても取り込めないニュアンス・感覚が出てきます。いくらリアルタイム翻訳が可能になったとしても、この感覚の壁を超えることはできないのです。
人は言葉により世界を認識する #
我々は言葉により世界を認識する。使用する言語が世界の見え方を決めるというのは、入試試験の論文でもよく出題されるテーマですが、これまで見てきた例はまさにその表れの一片でしょう。
実際、研究でもそれを裏付ける結果が出ているようです。
使う言語が「世界の見え方」を決めている:研究結果
「言語が変われば周りの世界も違って見える」ということが証明された。同じ人でも、そのときに使っている言語によって物事の捉え方が変わってくるのだという。
(中略)研究を行ったランカスター大学の言語学者、パノス・アサナソプロスは、被験者に、自動車の方向へと歩いている人物の動画を見せた。その様子を言葉で描写させたところ、英語を母国語とする人の多くは「人が歩いている」動画だと答えたのに対し、ドイツ語を母国語とする人の多くは「自動車に向かって歩いている人」の動画だと答えたのである。
つまり、ドイツ語を母国語とする人は、人物の行為だけでなくその目的も一緒に描写する傾向があるのだ。なぜなら彼らの言語は、出来事を全体において考察する、全体論的観点をもつ言語だからである。これに対して、英語を話す人は、行為そのものだけに注意を集中させる傾向を持っているようだ。
この傾向は、(中略)行動と時間との関係を表す文法の特徴からきているという。
例えば英語では、ある出来事が展開している段階にある様子を「-ing」形を使って表現する。
(中略)これはドイツ語にはない特徴である。
使う言語が「世界の見え方」を決めている:研究結果| WIRED.jp
ではバイリンガルはどのように世界を捉えるのでしょうか。記事は次のように続きます。
では、バイリンガルな人々の場合はどのようなことが起こるだろうか。また、こうした違いは、言葉を使って物事を表現するときだけでなく、物事の捉え方などの非言語的な場面でも現れるのだろうか。
(中略)英語もドイツ語も流暢に話す人々に実験を受けてもらったところ、答えは被験者がその瞬間に使っていた言語によって変わることが明らかになった。
バイリンガルの人々がドイツ語を使っているとき、彼らの回答はドイツ語を母国語とする人のものに近かった。逆も然りである。さらに、実験の途中で使う言語を変えてもらうと、答えもまた変わったという。
アサナソプロスが説明しているように、使う言語によって自分の人格が変わっているように感じる人は多い。そして実験の結果は、この感覚が正しいということを裏付けているようだ。
使う言語が「世界の見え方」を決めている:研究結果| WIRED.jp
母国語ではない言語を新たに学ぶことは、新たな世界の捉え方、ひいては自分の感性を拡張することにもつながります。こう考えると、英語の学習もさらに楽しんで行えるようになるのではないでしょうか。
感想 #
村上春樹の作品が持つ、何か喪失感のようなものが好きです。
村上春樹はアメリカの文学作品、特にロストジェネレーションと言われる世代の作品の影響を強く受けています。
ロストジェネレーション
ロスト・ジェネレーション(ロスジェネ)。直訳すれば「失われた世代」。第 1 次世界大戦後に活躍したヘミングウェイ、フィッツジェラルド、フォークナーなど米国人作家に代表される世代を指し、「迷える世代」「喪失の世代」などとも訳される。
ロストジェネレーション(ろすとじぇねれーしょん)とは - コトバンク
第一次世界大戦という当時としては未曽有の戦争により、既存の価値観が崩壊し、生きる指針を失いながら、それを追い求めてさまよった世代です。
フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」を村上春樹が訳したものは読んだことがあります(他の訳者からも訳本がいくつか出ており「華麗なるギャツビー」と訳して販売されているものもあります)。やはりどこか喪失感漂う作品です。夏の終わりのような(実際、グレート・ギャツビーの物語の季節はまさに夏の終わりなわけですが)少し寂しさを覚えるような感覚を味わいます。
英語を習得した際には原文で読んでみたいと思います。格調高い英文のようなので、読むのは当分先になってしまうと思いますが…。
以上で終わります。読んでいただきありがとうございました。