ノートの最初のページはわざと雑に使う

ノートの最初のページはわざと雑に使う

September 22, 2019

はじめに断っておこう。この記事に大した価値はない。あなたがどうしても時間を持て余していて、かといって何もせずにいるのも落ち着かないという状況に限り、半ば上の空で読むのがよろしいと思う。

新品のノートを使い始める時、緊張が走る。 #

なぜか。それは出だしの一筆の善し悪しによって、これから先そのノートを使うときのモチベーションが大きく変わってくるからである。

満足のいくスタートを切れたならば、当然のごとく、これからもそのノートを大切に使おうと思う。きっとそのノートを使った勉強もはかどることだろう。

逆に、納得できないスタートを切ってしまった場合、その後のノートの先行きは保証できない。モチベーションが上がらないまま途中で使用をやめてしまったり、最悪の場合、最初の出だしに失敗した時点でそのノートそのものが破棄されかねない。

あまりにも極端だと思うだろう。ただ、物事の始めというものはそれだけ大事なのだ。

「終わりよければすべてよし」という言葉を聞いたことがある人は多いだろうが、実は「始めよければ終わりよし」という言葉もある。

始めがよければ終わりがよくなり、終わりがよければすべてがよくなるため、実にシンプルな三段論法が成り立ち、結局のところ「始めよければすべてよし」になるのである。

つまるところ、始めがすべてなのである。ノートの出だしの一筆に全身全霊を賭ける必要がある。

ところが、全身全霊を賭けたってうまくいかない時もある。しかし、うまくいかなかったからと言って新品(正式には出だしの一筆が記入されている状態なので新品ではない)のノートを捨ててよいものかというと、私が石油王でもない限り勿体なくてそんなことはできっこない。

ノートの消費が進むという意味で文具メーカーは喜ぶかもしれないが、無駄遣いは環境にだってよくない。WWF のパンダに殴られても文句は言えまい。

ノートの出だしの一筆、このような非常にリスクのある場面における唯一の対抗措置が、あえて雑に書く、ということなのである。

「始めの一筆」勝負はしません、という戦略的撤退。 #

あえて出だしの一筆を雑に書くことによって、「始めの一筆」の成否の勝負からは降りるのだ。

きれいな文字を書こうとして失敗することはあれど、崩れた字を書こうとしたものの誤ってきれいな字を書いてしまうことはないだろう。

つまり、わざと雑に書くことにより、不格好な字がノートに記述されることは運命的に決定されているのであり、この状況において「始めの一筆」が成功するか失敗するかという勝負は発生しないのである。

これは 「始めよければ終わりよし」およびそこから導かれる「始めよければすべてよし」という人間が作り出した既成概念、それによってもたらされる物事の始めにおける精神的重圧から解放されるための対抗措置であり、戦略的な撤退なのである。

出だしで失敗したって、あとで挽回すればよいではないか。マラソンを走りだす際、神経をすり減らしてスタートダッシュの1秒を縮めるよりも、精神的に平穏のもと走り出した方が最終的にはよい結果につながろう(ただし、短距離走の場合はこの限りではない)。

これはこのブログの最初の記事です。 #

さあ、そろそろこの記事も終わりにしよう。結局のところ何が言いたいかって?

それはこれがこのブログの最初の記事だということだ。

ノートに限らず、ブログの最初の記事だって非常に気をつかう。そもそも記事を書く前に、ブログのデザインをどうするかから気をつかう。最悪の場合、1つも記事が投稿できないまま半年が過ぎる場合もある(経験済)。私自身、そんな性格なのだからしょうがない。

だからこそ今回は、最初に投稿する記事には力を入れず、わざと雑にスタートしようという意図なのである。

この記事を読んであなたは何かを得られただろうか?

…え?時間を無駄にしたって?

だから、始めに書いたではないか、この記事に大した価値はないと。

(追記) #

最近はノートを買ったらカッターですべてのページを切り離し、レポート用紙のように使っている。こうすることで、最初の一筆にどうしても納得がいかなかった場合でも、そのページを捨て去ってしまえばミスは帳消しになるのである。その後新たな心持ちで、次なる用紙に対し最初の一筆を挑めばよい。

それならば最初からレポート用紙(なり、ルーズリーフなり)を買えという声が聞こえる気がするが、それはそれで負けた気がするため、私はあくまでもノートを買うのである。