読書記録 - 「風の歌を聴け」村上春樹

読書記録 - 「風の歌を聴け」村上春樹

October 13, 2019

読んだ本すべてとは言わないまでも、特に印象に残った本についてはブログに記録しておきたいと思う。なお、読書感想文ではなく、読書記録である。読んだ本を記録することが目的であり、自身の感想をつらつらと述べることを目的としたものではないので、面白みに欠けるかもしれないがご容赦いただきたい。

読書記録だけであれば、書名と著者名だけを書いておけば十分である。しかしそれでは記事にならないため、作品理解のための知識などの参考情報を自身の備忘録も兼ねて記載していく。ただし私は批評家的な読解はできないため、フロイトがどうだ、ユングがどうだ、と言ったことは分からないし、記載できないので悪しからず。

初回となる今回は、村上春樹の「風の歌を聴け」だ。私はこの本が好きで、何回も読み直している。読書記録の初回はこの本からはじめようと思う。

あらすじ #

一九七〇年の夏、海辺の街に帰省した“僕”は、友人の“鼠”とビールを飲み、介抱した女の子と親しくなって、退屈な時を送る。二人それぞれの愛の屈託をさりげなく受けとめてやるうちに、“僕”の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていく。青春の一片を乾いた軽快なタッチで捉えた出色のデビュー作。群像新人賞受賞。

「風の歌を聴け」あらすじより

作者・作品 #

作者は言わずと知れた作家、村上春樹。1949 年、京都府生まれ。

「風の歌を聴け」は 1978 年、村上春樹が 29 歳のときに作った作品。1979 年に群像新人賞を受賞し、同年書籍化。村上春樹のデビュー作。講談社文庫版に準拠して書けば、約 160 ページほどの短い作品である。

理解のための関連知識(村上春樹作品の特徴など) #

メタファー(隠喩) #

村上春樹作品の特徴として、極めて飛躍的な隠喩があり、これが作品を難解たらしめている。それはミステリー作品のように論理的に読解して答えを求めるのではなく、文章が表現しようとするものを感覚的に捉えることが要求されるからである。

平易で親しみやすい文章は村上がデビュー当時から意識して行ったことであり、村上によれば「敷居の低さ」で「心に訴えかける」文章は、アメリカ作家のブローティガンとヴォネガットからの影響だという。

一方、文章の平易さに対して作品のストーリーはしばしば難解だとされる。村上自身はこの「物語の難解さ」について、「論理」ではなく「物語」としてテクストを理解するよう読者に促している。物語中の理解しがたい出来事や現象を、村上は「激しい隠喩」とし、魂の深い部分の暗い領域を理解するためには、明るい領域の論理では不足だと説明している。

このような「平易な文体で高度な内容を取り扱い、現実世界から非現実の異界へとシームレスに(=つなぎ目なく)移動する」という作風は日本国内だけでなく海外にも「春樹チルドレン」と呼ばれる、村上の影響下にある作家たちを生んでいる。

村上春樹 - Wikipedia

時間的配列の組み換え・省略 #

プロットが作りこまれており、時間的配列が組み替えられることが多い。また物語もそのすべてが記載されるわけではなく、しばしば省略される。「風の歌を聴け」については村上春樹自身も下記の通り述べている。

後のインタビューによれば、チャプター1の冒頭の文章が書きたかっただけで、あとはそれを展開させただけだったと語っている。村上自身は小説の冒頭を大変気に入っており、小説を書くことの意味を見失った時この文章を思い出し勇気付けられるのだという。また、最初は ABCDE という順番で普通に書いたが面白くなかったので、シャッフルして BDCAE という風に変え、さらに D と A を抜くと何か不思議な動きが出てきて面白くなったとも述べている。

風の歌を聴け - Wikipedia

なお補足として、ストーリーとプロットの違いを下記に記載しておく。

「ストーリー」と「プロット」は、一般に粗筋というような意味合いで、ほぼ同義に用いられる傾向がある。しかし、(中略)二つの概念は厳格に区別される。ストーリーとは、出来事を、起こった「時間順」に並べた物語内容である。他方、プロットとは、物語が語られる順に出来事を再編成したものを指す。

(中略)小説では、ふつう両者の間に差異がある。作者は、自分が書きたいことがもっとも効果的に読者に伝わるように、出来事や描写の配列を組み替える工夫を凝らすからだ。

(中略)ストーリーの配列の原則が時間順であるのに対して、プロットの配列では、出来事と出来事の間の因果関係に重点が置かれる。

(中略)プロットにおいては、出来事の時間的配列が組み替えられることによって、謎やサスペンスが生じるという効果がある。

「批評理論入門」より

チェーホフの銃 #

村上春樹作品の中でしばしば言及される概念である。作中に登場するすべてのものには意味があるということを示している。先述した省略の考え方と合わせると、「必要なものを省略することはあるが、余分なものは書かない。」ということかもしれない。

チェーホフの銃( Chekhov’s gun)とは、小説や劇作におけるテクニック・ルールの1つ。ストーリーの早い段階で物語に導入された要素について、後段になってからその意味なり重要性を明らかにする文学の技法。この概念は、ロシアの劇作家アントン・チェーホフに由来している。チェーホフの銃は、伏線の手法のひとつと解釈されるが、この概念は「ストーリーには無用の要素を盛り込んではいけない」という意味であるとも解釈できる。

チェーホフの銃 - Wikipedia

「海辺のカフカ」における登場人物の発言。

「ロシアの作家アントン・チェーホフがうまいことを言っている。『もし物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない』ってな。どういうことかわかるか?」

「海辺のカフカ」より

「1Q84」における登場人物の発言。

「チェーホフがこう言っている。物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない、と」「物語の中に、必然性のない小道具は持ち出すなということだよ」

「1Q84」より

感想 #

私が村上春樹の作品を好きな理由は、彼の作品には正解がないためだと考えている。これまでにあげてきたような極端な隠喩、省略などが使用されると、読者は自身でそれを補完しながら読まなければならない。このとき、必ず読者自身の背景や主観が入りこむことになる。つまり、彼の作品の解釈や味わい方は読者に委ねられており、絶対的な正解は存在しないのである。ただし、こういった性質は多くの文学作品に共通するものである。しかし、彼の作品の場合は、読者の解釈に依るところが他作品と比べて大きいように思う。

他方、筆者自身はどのような意図、解釈でその文を書こうとしたのかは非常に気になるところである。しかし、それを明かさないのが村上春樹の偉いところだ。最終的には読者の解釈に委ねられるといっても、ひとたび筆者が自身の意図を明かした場合、それはたちどころに教義と化してしまう。正解がないという作品の良さを守っているのは、他ならぬ村上春樹自身である。

この点、読者にとって、存命中の作家の存在というのは難しいものだ。死んでしまった人間の作品ならば、正解は永遠に失われており、安心して読者自身の解釈に耽ることができるためである。そんなことを、本文中に出てきた次の会話を読みながらふと思ったのだった。

ジェイズ・バーでの僕と鼠の会話。

「何故本ばかり読む?」

僕は鰺の最後の一切をビールと一緒に飲みこんでから皿を片付け、傍に置いた読みかけの「感情教育」を手に取ってパラパラとページを繰った。

「フローベルがもう死んじまった人間だからさ。」

「生きてる作家の本は読まない?」

「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」

「何故?」

「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな。」

僕はカウンターの中にあるポータブル・テレビの「ルート 66」の再放送を眺めながらそう答えた。

「風の歌を聴け」5章より

最後に断っておくと、今のところ私はハルキストではない。村上春樹の作品は片手で数えられるほどしか読んだことはないが、それでも少なくともこれまで読んだことのある作品についてはこう言える。

僕は・村上春樹の作品たちが・好きだ。