読書記録 - 「今を生きるための現代詩」渡邊十絲子
October 20, 2019
私はたまに純文学を読む。なぜ惹かれるのか意識したことはなかったが、おそらく、豊かな言語表現に触れることが楽しいのだと思う。(ちなみに、純文学とは、娯楽性よりも芸術性に重きを置く小説を指す言葉である。芸術性という部分に焦点を当てたかったため、冒頭でもあえて純文学と書いた。決して気取りたかったわけではない。)ただし、芸術的なものは難解で疲れる。だからあくまでも、たまにしか読まない(読めない)。
ところで、言語表現にさらに重きを置いた文学の形態があるではないか。詩だ。でも詩なんて全くわからない。そもそも詩という存在と最後に接触したのはいつだろうか。中学校の国語の授業で「道程」という詩を読んだ記憶がある。おそらくあれが最後か。などと考えていたら本屋でこの本を見かけたので購入した。今回は、渡邊十絲子「今を生きるための現代詩」の読書記録である。
あらすじ #
詩とはどういうものか、何が魅力なのかを紹介する内容。詩人である著者自身が、詩なんてそもそもなにを言っているのか意味不明なところが多いと言ったうえで、その魅力について語っていく。主張は、本文中に出てくる以下の言葉に集約されている。
「詩は謎の種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年経っても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるのかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない。」
「今を生きるための現代詩」より
作者・作品 #
渡邊十絲子(わたなべとしこ)。1964 年、東京生まれ。詩人。早稲田大学文学部在学中にゼミで詩を書き始め、卒業制作の詩集で芸術賞を受賞する。「今を生きるための現代詩」は 2013 年に講談社現代新書より発売された。
記憶に残っている記述と頭に浮かんだあれこれ #
下記の記述が印象強く記憶に残っている。
日本のマスコミは、ここ二三十年、「やさしくて伝わりやすいのが善、むずかしくてわかりにくいのは悪」という洗脳を、総力をあげておしすすめてきた。だから、自分が洗脳されているということに気づかないまま、「ぱっと見て意味が分からない詩なんて存在価値がない」と言いきってしまう単純な人もいる。
(中略)
ちょっと考えてみれば、「むずかしい」は「やさしい」より確実におもしろくてたのしいことがわかる。
自転車は補助輪をつけて乗れればじゅうぶんだと考える少年がどこにいるだろう。みんな、ころんでころんで、ひざをすりむいてべそをかきながら、それでも自転車にのろうとしつづけるのだ。乗れたらたのしいから、ただそれだけの理由で。手をはなして乗れたらもっと自由になれるし、たくさん乗せたせいろそばを肩にかついで乗れたら、さらに上等な自分になれる。
(中略)
世界の名作小説のこども向けダイジェストは、みな気のぬけたサイダーみたいにつまらない。ダイジェストの技術が稚拙だからではなく、レベルをおとして改変したものはすべてつまらないのである。
現代詩はむずかしい。でも、むずかしいからおもしろいのだ。
「今を生きるための現代詩」より
「むずかしい」表現の必要性 #
伝える側の立場に立つと、わかりやすくするためにはどうしてもレベルをおとしたり、細部を省略したりする必要があるが、そうなると、自分の頭の中にある伝えたいことと 100%同じものを相手と共有することは難しくなる。80%も共有できれば御の字だろう。ただし、例えば、ビジネスの現場ではそれで十分なケースも多いだろうし、なによりスピードも重要であるため、わかりやすいことはいいことだ。わかりやすいことが悪だとは思わない、善だと思う。
他方、むずかしくてわかりにくいのもまた善であると思う。むずかしいものにはむずかしくなってしまった理由がある。その表現でなければ伝わらない思いがある。メッセージを受け取る側に立つと、むずかしいものを受け止め、咀嚼し、理解するのは骨の折れる作業かもしれない。でも、だからこそ、伝え手の頭の中にある思いを 100%共有できた時の爽快感は格別なのである。
むずかしいのは悪いことではない、ゲームでも、「やさしい」より「むずかしい」の方がやりがいがあっておもしろい。
上記を読みつつ、ふと、BUSINESS INSIDER というサイトで読んだ以下の記事を思い出した。
ヤバいは思考停止、エモイは感性の腐敗
2000 年代前半だろうか。ヤバいという言葉が流行った。
問題が起きている状態、期待を超えた状態、予想外である状態など、全てをヤバいと表現する風潮があった。当時中学生だった筆者の周りにもヤバいを連呼する人はいた。どうヤバいの?ときくと「とにかくヤバい」と返ってくる。会話にならない。
(中略)
ヤバいという言葉は思考するという楽しみを人間から奪う。それと同じ現象が感性表現においても起きている。嬉しいときも、悲しいときも、切ないときも、エモい。
(中略)
思考のチャンスを「ヤバい」で失い、感情表現のチャンスを「エモい」で失う。何が残るというのだろう。
「エモい」は感性も語彙力も低下させる - BUSINESS INSIDER JAPAN
自分の思考や感情を適切に表現するのは大変な作業である。適切な言葉はなかなか見つからない。「ヤバい」「エモい」はとりあえずどのような状況にでも使える汎用的な言葉なのかもしれない(それが正しい汎用性なのかは置いておくとして)。その言葉に逃げたくなる気持ちも若干は理解できる。ブログで記事を書いている時なんて特にそうだ。
「エモい」は使わないが、「ヤバい」は、私も日常会話でたまに使ってしまう。これらの言葉が絶対悪だとは思わないが、より適切な言葉を探す努力は忘れないようにしようと反省した。
愛らしい言葉たち #
先の「やさしい」「むずかしい」の話について、筆者の主張内容に加え、その中で出てくる表現も気に入っている。
- 「たくさん乗せたせいろそばを肩にかついで乗れたら、さらに上等な自分になれる。」
- 「みな気のぬけたサイダーみたいにつまらない。」
愛らしい表現だ。上記記述のほか、文章全体で意図的にひらがなが使われているのも好きだ。
簡潔でわかりやすく主張するのであれば、上記の記述は不要である。しかし、このような表現があるからこそ、なおさら私の記憶に強く残って離れないのである。
そんなことを思いながら、Wikipedia のビールジョッキの記事を読んだときである(たしか、小・中・大ジョッキの量が知りたくて読んだのだと思う)、愛らしいという感情が再び沸き上がった。
日本のラガー・ビールは、味わいがあり、なおかつ喉越しが良い事で世界的にも知られている。その日本のラガービールを飲む上で、ジョッキに注いで盛大に飲む事は、一般的なビールを飲む日本人が好む飲み方である。ジョッキは主に円筒形をしており、側面には大きな取っ手がついている。これを片手ないし両手で持って、大いに飲み合うのである。
夏には良く冷えた生ビールをなみなみと注いで、これを飲み干す事で涼を取る習慣も見られ、エアコンの普及する以前の 1970 年代頃までは、仕事帰りに屋上ビアホールなどでビール片手に涼を取る人もしばしば見られた。中には中ジョッキで 2 ~ 3 杯は立て続けに飲む人もいる。
中生(ちゅうなま)・生中(なまちゅう)は中サイズのジョッキに注がれた生ビールを指し、居酒屋などで最も一般的な飲み方である。小サイズは小生(生小)、大サイズは大生(生大)である。ビールジョッキは大きさの規定がなく、小ジョッキは 200 ~ 300ml 程度、中ジョッキは 350 ~ 500ml 程度、大ジョッキは 700 ~ 800ml 程度が一般的である。(大・中・小:七五三と例えると覚えやすい)
ビールジョッキ - Wikipedia
「盛大に飲む」「大いに飲み合う」「中には中ジョッキで 2 ~ 3 杯は立て続けに飲む人もいる」といったような、ビールジョッキの説明には不要と思われる表現が盛り込まれている。しまいには、「(大・中・小:七五三と例えると覚えやすい)」なんてことまで書いてある。なんと愛らしいことか。
感想 #
記事中、詩についてほとんど触れられていないことにお気づきになっただろうか。結局のところ詩に関して何かしらでも文章にできるほど飲み込めていないのが現状である。
とはいえ今回の本で、身構えるな、という詩を読むときの心の持ち方は教わった。いつか詩集(文庫本サイズのダイジェスト的なものレベルで)を読んでみようと思う。